先輩起業家・経営者インタビュー

★世界中で障がい者に関わる不可能を無限の可能性へと拡げていく

プロフィール

長谷川敦弥/株式会社LITALICO代表取締役社長/EIP9期生
1985年岐阜県出身。名古屋大学理学部卒業。 2年時より大学を休学し、ETIC.を通じて東京のITベンチャーにて3年間の長期インターンシップを経験。営業として2億円以上を売り上げ、名古屋事業所の責任者に抜擢される。 大学卒業後の2008年5月、障害者分野の変革を目指す株式会社LITALICOに入社。 2009年8月、弱冠24歳で従業員150名の同社代表取締役社長就任。障害者の失業率は85%、福祉施設で働く障害者の月給は1万2000円という 社会問題を解決すべく、革新的なサービスを業界に次々と投入し改革を実行中。

 

インターンで数千万円という営業成績を叩きだし、24歳の若さで150名を超えるソーシャルベンチャーの経営者となった長谷川さんに、学生時代、岐阜の田舎を飛び出し、休学して東京のITベンチャーでインターンをすることになった経緯や、新卒として入社した
LITALICOで、突如、経営者を任されることになった話、そして、世界中で障がい者に関わる不可能を無限の可能性へと拡げていきたいというビジョンについて伺いしました。

僕の生まれは、岐阜の田舎町なんですよ。だから、「起業家」という存在すら知らなかったです。
インターンをする前はどのような大学生活を送られていましたか?

名古屋大学の理学部数理学科に入学をしたのですが、入ってすぐにやめようと思ったんですよね。大学に入ったら面白い人いるのかなとか、面白い先生たちに出会えるのかなと思ったら、「つまらない」と言いながら授業に出ている学生が多かったり、知的好奇心がそそられる授業があまりなく、すごく残念だったんです。それで、ここは自分の居場所じゃないのかなと感じて、辞めたいなと思っていました。高校までは、ずっと野球ばっかりやっていたので、あまり友達と遊んだりしたことがなかったんですね。女の子ともあまり遊んだこともなかったんですよ。でもやっぱり大学に入ったら女の子と遊びたいという気持ちもあったので、合コンに行ってみたんです。でも、それがあまりにもつまらなくて。合コンってこんなにつまらないものだったんだ、と思ってしまいました。他にもビリヤードやったり、家飲みとかやったりしても、やっぱり全然面白くなかったですね。

でも入学して2週間後に出会った、多治見にあるアルバイト先の焼肉屋さんとの出会いは、僕に大きな影響を与えてくれました。大学を辞めると言ったときに一番反対して止めてくれたのが、焼肉屋さんのオーナー夫妻だったんですね。「大学を辞めてなにをやるの?」と聞かれ、肉体労働が好きなので「とび職になる。」と話したんです。大学でよくわからない授業を生真面目に勉強するとか、会社員としてオフィスワークをするイメージはまったく持っていなくて、どちらかというと、ダボッとしたズボン履いて、体使って働く方が自分としてはかっこいいと思っていたんです。そういう話をしたら、「お前は馬鹿か。親に対して申し訳ないと思わないのか。名古屋大学は簡単には入れるところじゃないし、誰にでも出来ることをやっているわけじゃないんだから、そんなもったいない決断をしちゃいかん。」と真剣に怒られたんです。今でもとび職はかっこいいと思っていますし、その時は納得はしてなかったんですけど、アルバイトも続けたかったので、とりあえず大学には一旦残ろうと決めました。それからはアルバイト中心の生活で、ほとんど大学には行かず、アルバイトを頑張っていました。焼肉屋の仕事が楽しく、ようやく夢中になれるものが見つかったという感じでした。オーナー夫妻も僕の働きぶりを認めてくれていて、気がつけば店長という名刺を持たされ、集客からアルバイトの採用まで任されていました。

大学入学当時から、起業することを考えていたのですか?

全然考えてなかったです。大学に入学した時は、教師か塾の先生になることしか考えていませんでした。そもそもとび職を考えているぐらいだったので、選択肢として起業はなかったんです。僕の生まれは、多治見市の笠原町という人口1万人ぐらいの町で、いわゆる田舎なんですよ。なので、『起業家』という存在すら知らなかったです。ただ、焼肉屋オーナーの娘さんがETIC.の立ち上げメンバーで、国際線のフライトアテンダントをされていた人だったんです。その娘さんが「日本をこういう風に変えていきたい」「こういう社会の課題を解決していきたい」「こういうことにチャレンジしていきたい」という高い志を持った方々の話をいろいろと僕に話してくれたんです。長谷川岳さん(参議院議員。YOSAKOIソーラン祭り創始者)、佐藤大吾さん(NPO法人ドットジェイピー理事長)、泉健太さん(衆議院議員)、宮城治男さん(NPO法人ETIC.代表理事)などといった方々が、学生時代から様々なチャレレンジをされてきた話をたくさん聞かせてくれたんです。自分の年齢と変わらないような人達が、チャレンジしている話を聞くうちに、だんだん影響を受けていきましたね。

大学1年生の終わり頃、お店としては跡継ぎを探していたので、「僕が焼肉屋をやっていきたい。お店を多店舗展開していきたい。」とオーナーに話したんです。そしたら「お前には絶対任せん。死んでもおまえには継がせん。」と言われたんです。「田舎の大将になってほしくない。」と。

店長といっても安月給だったので、これだけ働く店長って、今考えたらオーナーとしてすごい都合いいですよね。お店のことを考えれば、大学4年間、目いっぱい働いてもらいたいと普通だったら思うわけじゃないですか。それをあえて「岐阜から出てアメリカか東京に行きなさい」と言ってくれたんです。「敦弥くんなら、本当に世界のリーダーになれるかもしれない。だから田舎の大将になるな。」と期待をたくさんかけてくれていました。オーナーの奥さんも「日本を背負って立つような人になってもらいたい。」と。

孫正義さんの本がきっかけで人生観が変わり、日本を変えていきたいという想いを抱き始めました。
孫正義さんの本で人生観が変わったと聞いていますが、どのように変化したのですか?

オーナーから言われて将来の夢や今後の生き方を考えだしてた頃、「志高く 孫正義正伝」という孫正義さんの本と出会ったんです。それは衝撃的で自分の人生観を大きく変えた1冊になりました。一言で言えば僕に「希望」を与えてくれたんですよね。僕は、どっちかというと、空気は読めないし、おかしな行動すると周りからよく言われていたんですね。失礼なことを言ったり、常識的な部分とか、マナー的な部分も結構飛び越えちゃう癖があるんです。でも、本を読んで孫さんの人生を知ると、思いっきり飛び越えまくっているというか、衝撃的だったんです。世間的に大成功している人が、こんな人だったんだと。面白かったのは、孫さんが高校1年生のとき、塾を開きたくて、先生雇わなければいけないから、高校の校長先生のところに行って、いくらだったら私の塾に来てくれますかと話をしているんですよ。その出来事に僕の経験がシンクロしたんです。僕は大学生の時に、学校にこんなのがあったらいいんじゃないかと、同じような話を教授にしたんですよ。他の人からしたら驚くような内容の話だったのですが、話していた自分は必死だったんで、当たり前にそれを話していたんですけどね。ここまで好きなことをやっていて、チャレンジして、今、結果的に世の中に認められている姿に希望を持ったんです。自分は友達もたくさんはいないし、先生からも嫌われるような子どもだったので、ダメな人間なんだろうなという気持ちが強かったんです。だから、ある意味自分の本当の感性や自分の考えを表に出さなくなっていたんです。そんな時に、自分の考えを思いっきり出して、かつ出し続けて、かつ膨張させていって、大成功していっている人がいるというのはすごく興奮しましたね、それは、今でもよく覚えていますね。

それまでは、学級委員長とか、生徒会長とかやっていて、みんなからも人気があるような人が政治家や起業家になるイメージが強かったんですよ。僕みたいにちょっとおかしな、変な人間は、なれないという線引きがあったんですけど、その線が孫さんの本を読んだことで取り除かれ、自分もできるかもしれないという想いが、より強くなっていったんです。その頃から「日本を変えていきたい」というような想いを抱き始めるようになりました。

ETIC.との出会いは、東京ベンチャー留学とのことですが?

アルバイトをしながら、東京で開催されるビジネスの勉強会やイベントに行ったり、中小企業診断士の勉強をするために専門学校に通ったりしていたのですが、「日本を変えていこう」と本気で思っている人には、なかなか出会えなかったんです。それで次のステップを模索している時にETIC.が主催する東京ベンチャー留学のことを焼肉屋の娘さんから聞き、「おもしろい人に出会えるかもしれない」と思って参加しました。(東京ベンチャー留学とは、地方在住の学生向けに、2泊3日で東京のベンチャー企業を中心とした起業家の元を訪ね、仕事の話から人生の話まで直々に話が聞けるプログラム)

東京ベンチャー留学に参加して何が印象的でしたか?

2泊3日の東京ベンチャー留学で、7人ぐらいの経営者の方とお会いして、きらきらしているなと思ったんですよ。若いし、エネルギッシュで、楽しそうで、イキイキしているなと思いました。今まで自分が出会ってきた田舎の中小企業の経営者達とは全然質が違って、野心的で輝いていたんです。自分もこの人達みたいに自分の志に情熱の全てをぶつけていくような生き方をしていきたいと思いましたが、一方で不思議と東京で出会った7人の経営者の誰にも負ける気はしなかったです。それは野生の勘みたいなものでした。私は努力すれば出来る人間だし、やる時は誰よりも努力する人間だから、やると定めれば絶対この人達にも負けない貢献をする人間だと感じたんです。

インターン先となる株式会社ガイアックス(以下ガイアックス)との出会いも東京ベンチャー留学ですか?

そうです。東京ベンチャー留学の最終日にガイアックスの上田部長と出会いました。上田部長と僕は、まったく対極的な感じがしたのを覚えています。結構、僕ド真面目な人間でもあったので、例えば学生団体とかやっていた時も、仲間に対して強く当たっちゃうんですよね。日本を変えようと言っている中で、なぜ今日バイトにいくんだ。なぜテストを優先した。真剣にやれよとぶつかっちゃうんです。それぐらい中途半端にやるとか、不真面目にやることが嫌いなんです。自分はすごく理念的なんで、「あるべき姿を目指して、理想に向かうべきだ」という考え方が自分の軸なんですね。一方で上田部長は、「楽しけりゃ、人生ええやん」という感じで僕とはまったく違った考えた方を持っていて、なぜかそこに惹かれてしまいました。

それでガイアックスの営業のインターンをやってみたいなと思っていたのですが、その時、万博のプロジェクトを学生団体のメンバーとやっていたので、それをNPO法人化してやっていくか、ガイアックスに行くかの2択で迷っていました。最後は直観的に、NPO法人化しても学生団体の延長線上では大したことができないと思ったんです。あわせて、根拠のない自信はあったものの、力をつけるためには大きく環境を変える必要性も感じていて、自分が直感として可能性を感じられるところに飛び込んでみようと思ったんです。そうしたら、また新しい出会いや本気で一緒に頑張れる人との出会いがあるかもしれないし、自分が本当にやりたいことが見つかるかもしれない。また、社会がどんな場所で、自分がどんな人間なのかわかるもしれないと思って、休学してITベンチャー企業であるガイアックスでのインターンを決意しました。本当に悩んだんですが、一緒にやろうとしていた学生団体のメンバーには、「ごめん。」と言って東京に行くことにしました。

インターンで結果を出すには、単純にみんなより頑張ることじゃないかと思うんですよね。僕より頑張っている人はいなかったと思うんです。

ガイアックスでのインターンは最初どのような感じで始まったんですか?

入社して最初の月から目標設定をしければいけなかったので、他のインターン生が20万円とか50万円とか売り上げ目標を設定している中で、僕は1500万円と大見得を切って設定していたんですよね。もちろん達成出来ませんでしたよ(笑)。その時に達成できなくて、上司に詰められて、その言い訳が出来ないみたいな屈辱感はよく覚えていますね。その当時の僕は目標設定の甘さとか、そういうレベルではなく、そもそも営業がなにかわからないし、商品がなんなのかよくわからないし、インターネットも全く知らない状態でした。最初は大手ゲームメーカーさんに対して広告枠を売ってくることが仕事だったんですけど、ページビューと言われても「?」なわけなんですよ。だからお客さんに「どうやってこのサイト見られるんですか?」と言われても、「どこにあるんですかね、これ?」という風に最初は販売しているサイトまでたどりつけなかったんです。インターンする前はヤフーも知らなかったぐらいですから、インターネットの世界は、別世界、本当によくわからなかったんです。目標は高くという意識だけあったんですけど、そういう目標は立てたものの結果は散々でしたね。悔しかったですよ、こんなことしかできないのかと思って。ぼろぼろでしたね。ただ、そこで諦めようとは思いませんでした。目指す目標が違うんだという意識がすごく強かったので、「今に見てろ」と思っていました。

その当時、目指していた目標は何だったんですか?

なんですかね。目指しているところがどこなのか分かっていなかったんですけど、ただ、ものすごく大きいところだという気持ちしか当時はなかったですね。何をやりたいかよくわからないけど、ものすごく社会に貢献したいし、ものすごく大きいことを成し遂げたいと思っていました。そういう風に思っている人はたくさんいるんですけど、僕、真剣なんですよ。ものすごく大きいことを成し遂げられなかったら、本当に死にたいって思うんですよね。生きている意味が無いと思うんです。やっぱり生まれてきたからには、日本を変えるぐらいのことは最低でもやりたい、世界を変えられるような人間になりたいという気持ちでした。そのために、どうしたら良いのかは、まったくわかっていなかったのですが、そういう気持ちでしたね。

インターン期間中に売上年間5000万を達成されますが、なぜそのような大きな成果を出せたのだと思いますか?

単純に言って、みんなより頑張ることじゃないかと思うんですよね。多分、僕より頑張っている人はいなかったと思うんです。他のインターン生は土日は遊んでいましたから。せっかく休学して時間を使っているんだから、最大限有効活用したいという貧乏根性みたいなのはありましたね。自分だったら、どう経営戦略を考えるのかという仮説を立てて、実際、上田社長がどう経営するのかを検証する。しかもその経営戦略の結果まで見ることができ、内情まで知れて、最高の教材だと思っていたんです。それを教材にできるかどうかは自分次第だし、貪欲にこの機会を最大限活かさなきゃと思っていました。インターンで結果を出して、上司にほめられることが僕の目標じゃなく、もっと遥か向こうに目標があって、それに向けて役立つことを、この場所を使って吸収していこうという感覚が強かったですね。すごく利己的かもしれないですけどね。今の会社に来ているインターン生・若手社員を見ても、その当時の僕程に貪欲なインターン生は見たことが無いですね。みんな短期的なメリットに目が奪われているような気がします。長期的な視点で考えれば、学生という立場で経営層とフラットに付き合えたりしながら、社員ともコミュニケーションが取れて、ベンチャーの貴重なステージに立ち会えて、そこで学ぶことって山ほどあるわけですよね。それをみんな短期的な欲望に囚われて、大事なものを捨ててしまっている。僕は長期的な結果に対して貪欲なので、将来必要になると思ったことは全部得てやろうと思っていました。あの時あれを学んでおけば良かったと、後悔するのは嫌じゃないですか。

インターンで成果を残せたのは、その貪欲さが最大の理由ですか?他に何かポイントはあるのでしょうか?

ポイントを絞って、インターンで結果を残したというところだけで言ったら、2つあるかもしれません。まず1つ目は目指すベクトルが違ったということだと思います。ガイアックスの執行役員の松井さんからよく言われていた話で、「長谷川くんは、何がすごいかわかったぞ。みんなと君の違いは仰角の角度だ。目指すものが違う、行きたいところの高さが圧倒的に違うんだ。だから同じ半年間を過ごしても辿りつく高さが違う。」と言われました。確かにインターンの時も、僕は圧倒的に高いものを目指していたと思います。それから2つ目のポイントは上田部長や焼肉屋のオーナーさんなど、僕に期待をかけてくれて、時間を割いてくれたり、心を入れてくれた人たちの期待に応えたいという気持ちが踏ん張りになりました。

上田部長は当時から「お前は将来パブリックな企業の経営者になるよ。」と言ってくれていました。焼肉屋のオーナーは「あつみくんは日本のリーダーになる。」と言ってくれていました。苦しい時に踏ん張れたのは、そういう人たちが使ってくれた時間や気持ちに応えたいという想いが強かったからです。苦しい時もありましたし、悔しい時もありましたし、「このクソ」と思う時もありましたけど、そういうときは応援してくれている人達の気持ちに応えたいという強い想いが馬力を生み出してくれました。

富裕層を幸せにするビジネスでは僕は燃えない。でも、このおばあちゃんを助けることには燃えられる。単純に心が燃えることをやりたいなと思ったんです。
大学卒業と同時にインターンを終了し、新たな挑戦として株式会社 LITALICO (以下LITALICO)へ入社することを選ばれた理由は何だったのですか?

「世界を変えることをやっていきたい」「自分にしかできないことをやっていきたい」「自分がこれやらなきゃいけないと心の底から感じるようなことをやりたい」という想いがあり、そこに対して、僕は真直ぐにやっていきたい人間なんだということが分かってきたんです。その自分の軸が見えたことは、インターンをして良かったことの1つでもあります。「やりたい」と直観的には思えないこともやってみたし、辛いこともやってみたし、その経験を通じて、自分と会話をしてみた結果、独立しようと思ったんです。自分が必然性を感じられる社会性の強い分野というか、人の命や人の根本に関わるところで事業をやりたいなという気持ちが強くなって、そういう社会性の強いビジネスを1度見てから、自分で独立しようかなと考えていました。

ガイアックスでは、IT使っていろんなことやるじゃないですか、カラオケユーザーを楽しませるとか、ゲームを作るとか。そういうことをやる中で、IT自体にはすごく可能性を感じたし、面白かった。でも、それに必然性を感じるのか、それに対して本気で燃えられるのかという話ですよね。例えば、富裕層を幸せにするビジネスでは僕は燃えない。でもこのおばあちゃんを助けることには燃えられるな。単純に心が燃えることをやりたいなと思ったんです。そんな想いからLITALICOに入社することにしました。

なぜ福祉という分野だったのですか?

実際にLITALICOの現場も含めて、福祉施設をいくつか見に行って、本当にびっくりしたんです。僕は、ITの世界にいたので、世界がより理想的な方向に進むところばっかりを見てきたんです。ITを通して、世界がどんどんいろんな形でより良い形に変わって行くじゃないですか。そういう中で福祉の世界は、それとはかけ離れた実態だったんです。僕が見たことの無い世界だったので、福祉施設で、障がい者の人と話す時、最初は疲れちゃったんですよ。ものすごく疲れて、エネルギーが奪われてしまった。言葉が悪いですけど、その場に生気がなかったんですよ。とにかく雰囲気が重かったんです。「これは変えなきゃ、なんとかしなきゃ」と思いましたね。IT業界は自分がいなくても革命は止まらないけど、この分野は私みたいな人間がいないと変わらないと。

よく「なぜ障がい者なのか?」「身内に障がい者がいるのか?」と原体験をよく求められますが、私は原体験の有・無よりもどういう経緯であれ、決めた志を成し遂げていく実行のほうがはるかに重要だと思っています。

新入社員として入社して、わずか1年3ヶ月でLITALICOの代表をすることになった経緯を教えてください。

社長の佐藤さんが選挙に出馬することになり、僕が代表にならないかという話を頂いたんです。

正直迷いました。人が作った会社を継ぐのではなく、会社を一から立ち上げたいと思っていたので。社長を引き受けた理由は、応援してくれる方々がたくさんいた、ということだと思います。この事業に僕が関わってから、ETIC.さんも含め、本当にたくさんの人が協力して下さるようになりましたし、想いに共感する人たちが社員として集まってきたんです。僕はこれだけの人に応援してもらっているし、業界を変えていきたいという気持ちも本物になったし、その理念に集う社員も入ってきたので責任を感じるようになっていました。そもそもそれだけでなく自分があれだけの高い目標の山に登っていくんだから、今回途中で会社継いでいくとして、残りの既にいる社員スタッフ150人ぐらいをしっかり包みこんでやっていける人間じゃなかったら、所詮あの高い山なんて登れないって思ったんです。だとしたら遅かれ早かれの話かなと思ったんですよね。

そうはいっても結構考えましたけどね。やっぱり自分で一からやりたかったし、自分で会社の名前も作りたかったし、創業のヒストリーをたくさん見てきたんで、憧れる部分はあったんですけど。とはいえ、自分が揺るがなければいいのかなという気持ちもあったので、どうせ登る山はあれだけ高いんだから、これぐらいのことは今できなかったらあかんなと最終的には思うようになりました。

いずれ、2万人、20万人みたいな組織を率いていこうと思ったら、150人ぐらい、24歳でも出来なきゃいかんなと思うんです。
実際に経営者になってみて、社員でいることとの違いはありましたか?

ずいぶん違いましたね。本気の度合いが違いました。なんて自分の意識は低かったんだ、と思いました。経営者は、船に乗るとしたら、先頭ですよね。今まで僕は、どちらかというと船の後ろで掃除しながら見ていたという感じなわけなので、いざ、船の一番先に立って見て、先頭ってこんなに怖いんだ、先ってこんなに見えないんだと思いました。そんな中で次の行き先にどう導いていくのか考えなければならない、というのは自分が後ろから見ていた景色とはまったく違いましたよね。

24歳で、150人程の社員を率いる経営者になることは大変じゃないですか?

もしかしたら、5人ぐらいの会社の経営者が身の丈だったのかもしれないですよね。普通はそれで10人の組織ができて、20人、30人とちょっとずつ成長していって、ようやく200人の指揮がとれるようになっていく。大企業の経営者は別として、一から会社を立ち上げた経営者だったら、そういう風に戦力値をアップさせていかなきゃいけないんですけど、まだ5人の会社しか経営できない人間が150人の経営者になったので、やっぱり大変なことはありますよね。一方で、自分の身の丈以上のチャレンジ、自分の今の120パーセントを出しても、まだ足らんなっていうような環境というのは自分には向いているなと思いますね。いずれ、2万人、20万人みたいな組織を率いていこうと思ったら、150人ぐらい、24歳でも出来なきゃいかんなと思うんです。

世界中で、障がい者が希望を持って生きていける、自分の人生を自分で切り開いていけるような社会をつくっていきたいです。
この業界に対する今の問題意識を教えてください。

この業界は変えなきゃいけないことがたくさんあると思っています。その変えなきゃいけない中でも、自分たちにしかできない部分をやっていきたいと思っています。具体的には、この業界の根っこってなんなんだと思ったら、障がい者本人とそのご家族の意識なんですよね。当事者の意識を変えるっていうことが、僕が出した1つの結論です。そこを変えないことには良くならんと。そこをいかにして変えていくか、やっぱり幼い時期からの本人たちのアプローチであり、親たちへのアプローチであり、障がいを持って生まれたけれども、希望をもって障がいを乗り越えて、自ら道を切り開いていけるような人生を送るためのサポートが大事だと思います。それぞれの個性に合わせた、機会平等を支える仕組みを作らなきゃいけないと思うんですね。障がい者本人、ご家族の意識を変える、それを支える仕組みをつくる、そこに対して、徹底的に研究して、アプローチをしていくということをまず日本全国でやりたいです。それで5年後には世界中でやっていきたい。

いくら企業が障がい者を雇用したいからといって、本人たちが家から出なかったら、雇用できないんですよね。大事なのは、本人たちを家から出すことだし、本人たちに自信と誇りを持ってもらうことだし、希望を持ってもらうことだと思います。そのためにまずは日本中の障がい者とご家族を支える社会システムを築いていきます。本人が本人の意思で不可能を乗り越え、自らの可能性を無限に拡げていける社会に変えていきます。

今後の中長期的なビジョンを教えてください。

世界に6億人の障がい者がいますけれど、1億人ぐらいは働けている状態にコミットしていきたいと思います。世界中の障がい者の皆さんが自らの意思で自らの人生を切り開いていける個性に合わせた機会平等社会を実現していきたいと思います。目下、日本では障がい者の年間就職者を1万人、10万人と出していけるようにしていきますけれど、あくまでやりたいことは私たちだけで大きな成果を出すことではなく日本全体を変えていくことですから、業界自体を底上げすることを目的に事業を仕掛けていきます。日本中の全ての障がい者が障がいを乗り越えられる機会を得られるような生態系を地域ごとに築いていきます。

ひとりひとりが勇気を持って、今までの軸に縛られないでチャレンジをしていってほしいと思っています。
ETIC.のインターンシップの魅力は何だと思っていますか?

ETIC.はインターンだけじゃないですよね。インターンだけでなく、もう少し長い道のりで考えてくれていて、その人生の長い道のりの中の最初のお付き合いが「インターン」という位置づけだと思うんです。僕の場合、最初東京ベンチャー留学でのイキイキした起業家との出会いから、ガイアックスでのインターン、そしてLITALICOでの事業拡大の支援だったので、ある意味ワンストップで支援されている感じですよね。僕にとっては、ETIC.さんはワンストップの人生パートナーというお付き合いをさせて頂いています。

インターンシップを始める学生にメッセージをお願いします。

私が国家の経営者であれば、国民にまず事実を伝えます。このままでは間違いなく国家は財政破綻する。そして現在のままの国民ならば復活も望めないだろう。破綻を食い止める、仮に破綻したとしても復活するためには国民一人一人が変わらなければならない。国民一人一人がこの国の傍観者から創造者へと変わらなければいけない。「民主党がどうだ」とか、「官僚がどうだ」ではなく、1人の国民として日本のためにできる最大の貢献にチャレンジしていく。国民一人一人がこの国の創造者に変わらなければ、日本に未来はないと思います。

今こそ自らを変える時です。そして今ほど社会を変えやすい時代もないです。「新しいことにチャレンジする」「常識に挑む」「ベンチャーに飛び込む」「自分のやりたいことと向き合う」「大きな夢や目標と向きあう」どれをするにしても大変な勇気がいると思います。ですが、いつの時代もその勇気が世界を変えてきました。時代を突き動かしてきました。この世界、日本の大きな変化をチャンスを捉え、勇気をもって自分にしかできない事にチャレンジしてください。国とは人ですから、国民一人一人が変われば、日本はまた復活していけると信じています。

(2011年1月取材)

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