先輩起業家・経営者インタビュー

平等であるべき世の中のチャンスをフラットにしていきたい/加藤 智久/EIP4期生/株式会社レアジョブ代表取締役

プロフィール

加藤 智久/株式会社レアジョブ 代表取締役/EIP4期生
高校生のとき、当時史上最年少で大前研一氏の一新塾に入塾。その中で人が敷いたレールではなく、自分自身でレールを作る生き方をしたいと、強く思うようになる。一橋大学に入学後、ETIC.を通じて、1年間休学してITベンチャーで新規事業の立ち上げのインターンを経験。この経験から世の中を変える事業を作ることへの想いを強くし、経営の修行の為、2005年に外資系戦略コンサルティングファーム・モニターグループ入社。2007年、Skypeを使ったオンライン英会話サービスを行うレアジョブを立ち上げ、現在に至る。レアジョブの登録生徒数は17万人を突破している。

オンライン英会話 レアジョブ・ウェブサイト

 

オンライン英会話マーケットを切り拓いてきた加藤さんに、大学1年生から休学して行ったITベンチャーでのインターン経験、経営コンサル→起業という戦略的キャリアについて、レアジョブ事業の未来、そして、その先に見据える「平等であるべき世の中のチャンスをフラットにしていきたい」という目指すべき社会について伺いました。

「自分でレールを敷いていく生き方」がしたい
加藤さんがインターンされる前の学生時代について教えてください。

kato01元マッキンゼー日本代表の大前研一さんの政策学校・一新塾に通っていました。僕は中学生の時から大前さんの本が好きで読んでいたんです。ちょうど大前さん主宰の政策学校が出来た時、僕は高校生ぐらいで「何のために学校に行くんだろう?」というモヤモヤした想いを持っていたときだったんですね。そこで、大前さんの塾に通って起業家や政治家、NPOの代表、冒険家など、色んな方々と出会って、その答えについて考えていました。そういう人の話を聞く過程で「あ、これだ」って思ったんですね。「これだ!」って言うのは、その人達は、自分自身でレールを敷いて生きている人達だったんです。私の父親は銀行員だったのですが、父のように会社に入って既に敷かれたレールの上を歩いていく人生がある一方で、一新塾で接した人たちのような「人生の在り方」に触れた時、自分は後者の「自分でレールを敷いていく生き方がしたいんだ」と気付きました。それが高校3年生くらいですね。

そして、大学1年生になったときに、「こういう生き方をしたい」「自分で人生を切り拓いていきたい」という想いはあれど、何をすればいいのか、いまいちピンと来てなくて。画家でもない、冒険家でもないし、と迷っている時に、たまたまETIC.とも縁が深い藤沢烈さんという方と知り合って、ETIC.主催のIT系ベンチャーの社長と会える機会をいただきました。

その時は、一新塾でモバイルを使った政策をグループで考えていたので、その構想をその社長に伝えたら、すごく気に入ってもらえたんです。それで、「今度また新しく会社を立ち上げるから、その立ち上げメンバーにならないか」とお誘いいただいたのがきっかけで、大学1年生の終わりから1年半、途中からは休学してインターンをしました。

一新塾での出会いから、起業家的な生き方にピンと来られたんですね。

そうですね。藤沢烈さんは僕の中高大の先輩で、初めて会った時から様々な話を伺っていました。たとえば、藤沢さんは「自分は何にでもなれる」って信じている。どういうことかと言うと、例えば政治家になると決めた時、藤沢さんはそれを「いつ達成するか」「そのためにはどういうプロセスが必要か」を考え、決めたプロセスをスケジュールに落とすんです。「この一年間は何をして、今月はこれをしよう、今日はこれをしよう」そうやって落とし込んでいくと、政治家になるまでのプロセスが作れるから、あとはそれをやるだけ。だから自分は何にでもなれるんだと語っていました。

必要なのは「どうなりたいか」を描くこと、それをプランに落としこむこと、それを日々実行すること。私はこの話を聞いてとても感心して、自分の「大学6カ年計画」を立てました。

6カ年計画とは具体的にどういったものでしょう?

私が一新塾で会った人、全員に共通していたのが比較的若いうちに何らかしらの「原体験」を得ているということでした。例えば、冒険家の場合は、若い頃に大自然に包まれるような経験をしていたり。私自身もそういう経験をしたいと思って、藤沢さんに相談したら、「そういう原体験は、大学の外に求めるしかないよ。」とアドバイスをいただいたので、大学時代を2年プラスして、最初の1年は留学し、あとの1年間は海外で暮らす、というプランを立てました。何であれ休学はするつもりでした。そして、いざ留学に行く前に、冒頭のベンチャーの立ち上げメンバーの話が来たので、留学ではなくそちらにコミットすることに決めました。

それと、6年間にしたのは、高校の時藤沢さんに、「浪人、留年、休学」は2年以内であれば、就職活動に全く影響しない。と言われていたのもあります。自分自身、実際に大学生活を6年にして、本当に就職活動においては問題がないなと感じました。

「一度大学に戻って勉強し直して、またベンチャーの世界に入ろう」
もともと留学のための休学だったのに、インターンをすることに決められたのはなぜですか?

もう楽しそうだったっていうことだけですね。(笑)1990年代後半はベンチャーブームで、ビットバレーやサイバーエージェントの藤田さんとか出てきた時で、世の中も変わりつつある時でしたから、「IT」や「起業」という言葉はすごく魅力的だったんです。

インターン時代は具体的にどのような仕事をされていたんですか?

kato02何でしたかね・・・。役に立っていなかった事だけは十分に覚えているんですけど(笑)コピー取りやお茶汲みから始めましたね。それから、社長について行ってメモを取っていました。ところが、何を言っているのかさっぱりわからないので、とったメモや議事録が後で役立つわけでもなく・・・。そういうところから始まって、徐々に新しい仕事を任せてもらいました。モバイル系のサービスをやっている会社だったので、自社モバイルサイトの中のコンテンツサービスを作りました。具体的には、世の中のウェブサイトを全部集めてきて、それをカテゴリに割り振って提供するという、Yahooカテゴリのようなサービスです。ところが、作ったはいいものの、大元のモバイルサイト自体に全然お客さんが来なかったんです。要するに、そもそものビジネスモデルとして失敗していたんですよ。そうして、一度会社が潰れかけたんです。売上がほとんどゼロで、半年で資金も食い潰して「ああ、この先、どうなっちゃうんだろう」って思っていたら、韓国系の企業に買収されました。買収されてからはポイント制サイトのビジネスを始めました。このポイント制サイトの事業モデルは、韓国で一度成功して、上場までいったモデルでした。今で言うと、ネットマイルのような感じで、媒体内の広告で貰えたポイントを、1ポイント1円で換金・還元しますよっていうモデルですね。それを会社全体でやり始めたんです。

本当に事業が全く変わってしまったのですね。加藤さんは買収された後、どのような業務をされたのですか?

営業企画のような形で、最初は営業に同行させていただいて、段々業務が分かってきた時に、新しい企画をやらせてもらいました。それは、アフィリエイト広告とポイント制サイトを絡めるというものでした。広告クライアントが我々が運営する商材サイトを媒体に広告を出稿し、広告を見たユーザーがサイト登録したら、300円ほど媒体に支払う。媒体側は、そのうち100円分をポイント変換して、ユーザーさんにお支払いし、ユーザーさんは媒体内でポイントを使用できるようにする、というモデルです。このビジネスは非常に成功して、半年間で粗利1000万円をだすまでに成長しました。そうして仕事を続けているうちに、6カ年計画のうちの1年間が終わってしまったので、今後のことを考えるにあたって、1日だけ学校に戻りました。そしたら、会社で働く方が面白いと感じて、学校に行くのは週1日だけにして、残りの4日とプラス土曜日に、会社で仕事をすることにしました。この期間が半年ですね。

相当コミットされたんですね。

そうですね。後半の半年以降は、会社本体もうまくいっていたので、私の担当事業も、お金もつけて、プログラムもアウトソーシングして、と、どんどん拡大していったんです。そうして、そのサービスが、いよいよ明日からスタートするという日になって、上司から「加藤くん、このサービスはできなくなってしまった、、、」と言われてしまいました。そもそもサイトに来てもらうための売れる商材が無かったんです。売れる商材がなくても、システム開発して、営業もつけて、プロジェクトはどんどん膨らんでいきましたが、実は、そもそもの基盤が創れていなかったんです。

システム開発は外部の会社さんにお願いしていたのですが、成功報酬型、要するに、売上のうち何%かをお支払いしますという形でやり取りをしていたので、謝罪に伺いました。実は、その会社は堀江貴文さんが当時やっていらした会社で、堀江さんからは「過ぎ去ったことはどうでもいいから、むしろ将来二度と同じこと繰り返さないか一緒に考えましょう」とおっしゃって頂いて。このことは非常に印象深い出来事でしたね。インターン先の社長や会長も動いて下さって、なんとか、この件を収めた訳ですが、この一件で、ある意味、自分の限界を感じました。1000万円までは自分1人で生み出せた。けど、その先の「億」という単位は自分ではできなかった。そこで、一度大学に戻って勉強し直して、またベンチャーの世界に入ろうと決めました。

この会社で昇進する事ではなく、自分自身が起業することの方が大事なことなので、「3年たったら辞める」と決めてコンサルティング会社に入社しました。

kato03

改めて大学に通いだして、インターンをする前との違いはなんでしたか?

そうですね、一度自分の限界に触れたので、何のために学校行くのか、目的が明確になりましたね。インターンを通して自分がやりたいこと、(=「将来会社を自分でやる」という事)がわかって、そのために学ばなければならないこと、越えなければならない壁がたくさんあるということが分かりました。例えば、マネジメントが出来ないと、どういう風に失敗しちゃうか、英語が出来ないと、シンガポールから電話かかってきても、その事業の担当にはなれない、というようなことが実感ベースで分かっていたので、大学で学ぶ目的が明確でしたたね。

3年生からゼミに入って勉強をして、普通はみんな3年生の終わりから就職活動をするじゃないですか。僕はその時期に就職活動をしなかったんです。4年の終わりから就活をして、5年生の頭に内定もらいました。そして、卒業までに学校に行かなくても良い期間が1年出来たので、その1年を使って、今度は海外長期旅行をしました。具体的には、中国に半年弱、メキシコに半年弱いたって感じですね。中国は中国語の勉強。メキシコは、その時サーフィンをやっていたので、サーフィンのビーチがあることと、そこにある日本料理レストランのマスターが魅力的で、その人の元に、いろんな人が集まっていて居心地がよかったので、そこにずっと居ました。

内定先はどういった会社ですか?

内定はいくつか貰っていたのですが、最終的に外資系コンサルのモニターグループという会社に決めました。英語で働いてみたかったのと、いわゆる戦略コンサルタントとしての業務になるので、マネジメントをしっかり学べるんだろうなと思って。そこについてもっと勉強したかったので、この会社に決めました。

人っていろんなタイプ、向き不向きがあると思っていて、僕の強みは0を1にする力だった。インターン時代は0から1000万の利益を生むビジネスモデルを作ることができましたが、逆に1000万のものを10億に、つまり、1を100にすることは出来なかった。だから自分に必要なのは、1を100にするために数字でプランニングしていく、コンサルティング的な能力なのだろうと考えて、戦略コンサルに決めました。

モニターグループには何年くらい勤められたのですか?

モニターグループは、3年弱ですね。戦略コンサルタントになる時に最初に言われていたのが、最初の3年間の内に戦略コンサルを卒業して起業するか、もしくはパートナークラスまで上り詰めてから、辞めて起業するか、どっちかのキャリアしかない、と言われていたんです。

戦略コンサルの場合、最初の数年で学べることは多いんですけど、逆に3年以降に学べることは戦略コンサルに特化したスキルが多くて。例えば、より上手にパワポが書けますとか、大企業の人をこう動かせますとか、あまり起業してから役立つスキルではないんです。ただ、パートナークラスになってくると、自分で営業して取ってこないといけないので、その中で人脈も広がって、いざ自分が起業するという時に出資してもらえるので、それはそれで起業に役立つ。要するに、中間がないので、どちらのキャリアか選ばなきゃいけなかったんです。

僕はおそらく何年も経験を積んで、パートナークラスを目指すというキャリアは向いていないだろうなと感じました。そもそもこの会社で昇進するんじゃなくて、自分自身が起業する方が大事なことなので、「3年たったら辞める」と決めて入社しました。

起業をすると決めてから、レアジョブのサービスを生み出すまでの経緯を教えてください。

kato04起業する事は決めていたので、その為に必要なのは、「仲間」だと思っていました。ただ、僕がインターンしていたベンチャーも、凄く優秀な人たちが死にもの狂いで24時間働いていても倒産した。それは何故だろうと考えた時に、その会社はその時、旬のステージに乗れていなかったと思ったんですね。それがどういうことかと言うと、その会社は1999年創業で、その時に創業した会社で今でも残っているのって、例えば、サイバーエージェントとかDeNAみたいなモバイル系をやっていた会社だったんです。時代時代に応じて、「これから」来る波があるんです。その波が来てからでは遅くて、波の来るところで待っているのが重要だなと。だから、もちろん起業するにあたって、仲間も重要ですし、僕自身がいいビジネスマンになることも重要なのですが、それ以上に時代の波が来ているところにいるかどうかの方がより重要だと考えたんです。それで、自分たちはどこに仕掛けるかという事を友人達と試行錯誤をしていった中で、「スカイプ」が来るな、と。海外にいる人と、その人がまるで目の前にいるようにチャットできる。スカイプ周りのサービスが伸びると考えて、最初はスカイプでの中国語講座をやったのですが、失敗しました。やはりニーズは英語にあるという事で、友達とも相談して、英語に変更した、というのがレアジョブが立ち上がった経緯です。

その時はコンサルタントの仕事をされていたんですか?

最初はコンサルタントをやりながら2ヶ月、3ヶ月、テストランをしていました。ただ、テストの時には皆使ってはくれますが、実際は、お金は払ってくれないんですよね。実際、1ヶ月間テストをしても、お金を払ってくれる人が一人いるかどうかという状況で。どう考えても事業としてうまくいく見込みが立ってなかったのですが、どうしてもやりたくてしょうがなかったんです。そうなってくると、コンサルの仕事の時も、自分たちの事業の事を考えてしまうんですよ。で、上司はそれを見抜くわけです。(笑)「僕のミーティング聞いてないよね?」って。要するに私は戦略コンサルタントとして全然プロフェッショナルじゃなくなったんです。こうなったら辞めるしかないな、と思って、辞めました。

英会話ビジネスというレッドオーシャンで、かつテストの段階でも課題があったにも関わらず、仕事を辞めて勝負を仕掛けようと踏み切れたのは何故ですか?

とにかくやりたくて仕方なかったんです(笑)。それで、今から思うと、なんであんなにやりたかったかというと、初めてフィリピンに行った時、フィリピン大学でフィリピン大生と繋がった経験が大きいと思いました。フィリピン大学のキャンパスって道路がすごくぼこぼこで、建物が整ってないような環境なのですが、とても優秀な人たちが英語で友達と談笑しているんです。それを見て、私は「彼らは自分が戦略コンサルタントとして会ってきたハーバード大卒の人々と比べても見劣りしないくらい出来る人なのだろう」って、思いました。でも、その優秀な人材に仕事がない。そこにビジネスチャンスを感じたんです。彼らを助けたいってほど、かっこいいことじゃないんですよ。ただ、優秀な彼らが活かされていなくてもったいないなと思ったんです。

あえてフィリピンを選んだ理由はなんですか?

費用を抑えることができるのであれば、最初はどこの国でもよいと思っていたのですが、実際やってみて、フィリピン人の持っているホスピタリティは世界最高基準だって気づいたんです。要するに、彼らは気配りができるんですよね。例えば、サラリーマンが仕事で疲れて家に帰ってきて、テレビを見るか、寝るか、英語レッスンを受けるという選択肢があった時に、フィリピン人だったら気軽に話せる存在になれるんですよ。「今日疲れているけど、どうしたの?会社で何かあったの?」という一言が出てくる。それが素晴らしいですね。

そういったホスピタリティという観点は、事業立ち上げ時から意識されていましたか?

言語化は出来てなかったのですが、何かを感じてはいたとは思います。だからこそ、あんなにやりたくてしょうがなかったんでしょうね。

事業とは、「正しい問いを立てて、その問いの答え方がなんなのか分からない中、試行錯誤しながら解決していく」ということ
起業して苦労したことは何ですか?

kato05フィリピンではインフラが整ってないので、停電や、インターネット回線が繋がらないというケースが一定量発生します。そうした課題をカバーする仕組みを一つ一つ創り上げていくことは大変でした。その他に、フィリピンに正社員組織をつくろうとした時は、やはり異文化を乗り越えるのは大変でした。
例えば、日本でよくやるような、まずは相手にやらせてみて、それに対して「ちょっと、ここ間違っているから」とフィードバックをするというプロセスを繰り返して最終的なものを仕上げるというやり方は、フィリピンでは当てはまらないんですよ。

向こうの人たちは「上司は部下がやりやすいように、仕事を分解しなくてはならない」という考えなんですね。上司が目標達成に向けてのタスクを整理し、そのアウトプットで求められる基準も設定して、それを部下に渡すというのが一般的なんです。

もちろん、そういったやり方もやろうと思えば出来るんですけど、例えば、ベンチャーで新しいサービスを作る場合って、手探りでどうしても進まざるを得ない部分もあるので、そうやってタスクを分解すると、仕事の8割9割を私がやってしまうことになりますし、また従業員に仕事を通じて成長してほしいという想いもあって最初のうちは、とにかくやらせてみていたんです。そうすると喧嘩になってしまって。でも、当時の私としては、自由にやらせているのに、なんで喧嘩するのか全く分からなかったんです。でもそういう衝突を繰り返しているうちに、段々わかってくるんですね。向こうの人はホスピタリティに溢れていて、相手を満足させることが喜びなんです。そうすると、上司の期待が不明確な中でがんばるのが難しい。そこで私は、「君が良いものを最終的に自分で作れるということが私にとっての喜びだから、だから1回の指示でやることをすべて決めるのではなくて、何回か同じことを繰り返して改善するっていうのを一緒にやろうよ」と伝えることが出来て、そこで初めて向こうも納得してくれたんです。こうして分かり合えるまでに半年かかりましたね。

英会話の会員を増やすにあたって苦労した点はどういう所ですか?

会社やサービスの知名度が無い中で、パソコンに向かってフィリピン人と英語で話すという、ある種、異形なサービスを浸透させることには苦労しました。とはいえ、やっぱり、一度使ってファンになって下さる方は本当に多いので、そうした方々が口コミでレアジョブを勧めてくださるという流れは最初から生み出せていました。

利用者へのヒアリングなども行われていると聞きました。

そうですね。四半期に一回のペースで満足度調査を行ったり、1回1回のレッスン終了時に満足度を調査したり、それによって不満足だった場合は、お詫びに1レッスン余分にできる権利を差し上げたりとか、そういうことはずっとやっています。

今、ビジネスマンだけでなく大学生などにも、広くレアジョブのサービスが認知されていると思います。今後の展開ビジョンを教えて頂けますか?

大きな軸としては二つで、ひとつはライトユーザーの取り込みですね。たとえば、英語の初級者とか、ITに詳しくない方でも、気軽に使ってもらえるような形を創っていきたいです。もうひとつは、我々は『登山道』と呼んでいるんですけど、英語が話せるようになるまでのプロセスを可視化したいと思っているんです。イメージとしては自動車免許ですね。自動車免許をほとんどの人が所持している理由は「自動車を運転できるようになりたい」と思ったら、「自動車学校に行き、40時間だかの学科・練習を経て、テストに合格すれば運転できるようになります」っていう、「道のり」が見えているからだと思うんです。英語学習の一番の問題点は、そうした道のりが見えていない点なんですよね。今、英語を話せるようになった人を一番生んでいるサービスはレアジョブであるという自負はあるので、そのプロセスが「見える化」出来ればいいなと思っています。今の生徒の方々の成長を登山道に置き換え、「英語が話せるようになる」というのを山頂ととらえた時に、一人一人の生徒様の成長を何合目と分けていって。例えば現在6合目の人に対して、7合目にいる人が、自分は6合目のときにどんな教材・講師・レッスンを受け、どういう教材を使って自習をしていたかが分かるようにする。そうすれば、6合目の人が「こうやればいいのか」と、より英語を話すこと=山頂に近づきやすくなる。そういった仕組みづくりを今後行っていきたいですね。

当初からそういった構想はあったのですか?

いいえ、最初から考えていたというよりはステップアップをしていっているという感覚です。最初はいかに、この格安オンライン英会話というビジネスモデルを成立させるかに注力していました。それがある程度成功した後は、良い先生を安定的に発掘するにはどうしたらいいかというところに集中していました。現在講師が3000名いるのですが、設立5,6年のベンチャー企業で、3000名の人を抱えているところは、普通あまりありませんよね。今はその「3000人の雇用」が出来たので、更にもう一山、高い山を登ろうとしているという段階です。

レアジョブのミッションと、その想いを教えてください。

僕はミッションこそ全てだと思っているんです。事業って、「正しい問いを立てて、その問いの答え方がなんなのか分からない中、試行錯誤しながら解決していく」っていうことだと思っています。レアジョブの場合はそれが『日本人1000万人が英語を話せるようにする』、『chance for everyone, everywhere』っていう事業のビジョン・問いで、その問い立てが正しくて、かつその「問いの解」に着実に向かっているのであれば、動いているうちに必然的にお金は付いてくると思っているんです。だから逆に、良い人たちに集まってもらうとか、その集まっている人たちを同じ方向に向けるとか、しかも、それを文化や言語の違う人達とやるっていうことを考えると、もうビジョンでしかまとめ得ないなって想いですね。なので、ミッション・ビジョンは非常に重要な部分だって思っています。

加藤さんがビジョンを重視するようになったのはいつ頃からですか?

最初お話しした、自分でレールを敷きたいという話ですが、正確には僕は多分、起業家になりたいというより、なんかこう、新しい社会をつくりたいな、という想いが念頭にあったと思うんです、それを表現する手段が起業であり、ビジネスだったのです。なので、最初からミッションを重視していたように思います。

今後のアジアの動きをどのようにとらえていますか。

そうですね。会社のビジョン「Chances for everyone, everywhere」にも表しているのですが、我々の信念として、世の中のチャンスは平等であるべきだというものがあります。例えば、フィリピンの優秀な人達を見た時、20歳のときは優秀でも、30歳になった時に優秀であるかと言われると、同じ素質を持っていたら、僕は絶対日本にいたほうが優秀な人材になりうると思っているんです。なぜかというと、フィリピンの人々はチャンスが限られているから。例えば、20歳の時に優秀だったフィリピン人が、10年間、フィリピンでアメリカ人相手に単純なクレジットカードを売る仕事を続けている。一方で、10年間、日本に来て何かクリエイティブなことをやっている。どっちが伸びるかって、それは日本のほうが伸びますよね。それは本人たちの努力というよりかは、機会の差で、その機会の差っていうのは、仕方のない部分はありますが、インターネットができたことで、物理的な距離の意味はどんどん失われつつある。そうすると、例えば、世の中全体としては、チャンスが平等の方に向かって行くだろうなって、思っています。僕たちはその平等になる時の、鞘(さや)抜きをしたいなという想いがあります。例えて言うなら、15世紀〜16世紀にポルトガルの商人がインドに着いて、本国だと胡椒一粒は黄金一粒に値するほど貴重なものでしたが、それが100円200円で買えるようになった。で、みんな驚喜したと思うんです。そういう風に、少しずつ物の値段とか、世の中をフラットにすることを僕はしたいなって思っています。才能を持った人たちの才能をきちんと必要としているところに届ける。それが、レアジョブの場合は、フィリピン人の英会話能力を日本に届けるという形ですし、もしくは、日本人をもっと英語が話せるようにすることで、日本人を必要としているところに届けられるかもしれません。そんな風に、世界規模で一番供給するのがうまい人と、一番消費したい人たちを、繋げていくってことがしたいなって考えています。

加藤さんのそうしたビジョナリーな思考はどこから来るんでしょう。

元々読書も好きですし、世の中のあり方を理解することにすごく興味があるんです。逆に言うと、そういう目線でいつも世の中を見ているので、例えば目の前で、「フィリピン人って、フィリピンパブだよね」など、一面的にしか物事を見ない人がいたら全然同調できない自分がいます。もちろん自分が起業という道を選ぶにあたって、こうした価値観・考え方はプラスになりますが、日々のコミュニケーションはそんな生産的である必要もなくて、むしろ相手に同調する方が重要だったりするじゃないですか。だからなかなかやりにくいときもありますよ(笑)僕自身、ある意味こうしたビジョナリーな起業を通じて、自分の居場所を世界に作ろうとしているのかもしれないですよね。世の中に同調するだけだったら、自分としては全然楽しくないので、自分で道を作っていると言えるかもしれません(笑)

自分が将来やりたいと思っていることを今やってみる
学生時代のインターンの経験は現在の仕事観や、レアジョブのミッション・ビジョンにどのような影響を与えていますか?

kato06インターン時代に、ベンチャー企業が1人から100人に成長していく過程を見ることができたことはすごく学びになっています。会社として何をすべきで、何をすべきではないかという事をなんとなく感じ取ることができたので、自分自身が会社をやるときも、ある程度覚悟して臨むことができました。

これからインターンをしたい、起業を考えているという学生に伝えたいことはありますか?

自分が将来やりたいと思っていることを今やってみることで、本当に自分はそれをやりたいのか、また、それを実現するにあたって今の自分に何が足りないのかが見えてくると思っています。僕の場合はインターン先がベンチャーだったので、ベンチャーで働いてみて、自分は本当にこれがやりたい、でも、今の自分では全然力が足りない、だからこの勉強しなきゃ、というのが、全部クリアに見えてきました。それを社会人でやろうとすると、リスクが大きいと思います。リスクが少ない状態で、将来やりたいことに向けた、またとない経験ができるチャンスなので、思い切ってチャレンジしてほしいですね。

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